命は自分を犠牲にするために生まれてくる

 「自分たちは一体どこから来て、何のために生まれてきたのだろう」

 これって人類が古代から問い続け、人類が存在する限り問い続けるであろう、究極の問題に違いない。「どこから来て」の部分はさておき、「何のために生まれてきたか」については、別に頭を悩ませる必要はない。「私たちは自分を犠牲にするために生まれてきた」これしかない。

 生のあとには必ず死が待ち構えている。つまり、何にために生まれてきたかという疑問は、何にために死ぬのかにつながる。私たちはどうして死ぬのか。他でもない、種の保存のためだ。子孫を残しその子孫のために死ぬのだ。これがこの世に生を受けた者の宿命、究極の自己犠牲であり、誰もそれから逃れられない。

 人間以外の動物たちは、この宿命を肝に命じて粛々と生きている。温かい冬を過ごすために、毎年何千キロもの距離を移動する蝶がいる。でも一羽の蝶が出発地点から目的地まで飛び切るのではない。その長い道のりの中、4、5回の世代交代がある。つまり、出発時点の蝶の玄孫あるいはもっと下の代の子孫が目的地に到着するわけだ。これってよく考えるとすごい。自分が旅の途中で死んでしまうとわかっていながら黙々と飛び続ける。「どうせ自分たちはたどり着けないのにやってられんわ。やーめた!」と言う蝶はまずいないだろう。蝶さんたち、カッコよすぎるよ。

 それに引き換え今の人類はなんだろう。限りある資源を消費しまくり、環境を破壊し、そのつけを後世に押しつける。蝶さんたちは、ほとほと呆れかえっているだろう。

 ちょっと周りを見渡すだけで、私たちはいかに他の犠牲によって生きているかがよくわかる。 そもそも毒キノコを食べると死ぬってどうしてわかるのか。それは他ならず、それを食べて死んだ人がいるからだ。その犠牲によって、私たちはこれは食べてはいけないものなんだという知識を授かった。

 現代に生きる私たちは医療技術の発達の恩恵を享受し、先人たちよりもはるかに長生きできるようになった。しかし、医療の発達は一朝一夕で成し遂げられたわけではない。多くの人が病気に苦しみ命を落とし、その過程で人類は病気を克服する手段を得て来たのだ。なかには、自分と同じ病気で苦しむ人たちのために、自らの身体を新薬や新技術の実験にと提供した人もいるに違いない。実験に使われてきた動物も数知れない。

 私は10年前に盲腸炎で緊急手術をした。盲腸炎なんて治るの当たり前、それで死ぬわけがない。でもそれは手術という技術が確立しているからに他ならない。手術のない時代、盲腸炎になったら死ぬしかなかった。手術がなかったら、私の寿命は確実に40代前半で尽きていた。延ばしてもらった命に感謝するしかない。

 自然災害は恐ろしい。荒れ狂う自然を目のあたりにしては、ちっぽけな人間はなすすべもない。それでもかつては何千人もの命を一度に奪っていった台風も、被害を最小限にとどめるべく、人々が防災に力を注いできた結果、今や犠牲となる人の数は格段に減った。これも過去の犠牲なくしてはなし得なかったこと。心にかみしめるべきだ。

 これまで、人類は多くの戦争を経験してきた。その中で計り知れない数の命が奪われてきた。そもそも戦争自体が人間の愚かな所業だが、戦った一人一人の兵士は、それぞれの使命に燃え勇敢に命を落としていった。守るべき人を守るために自分の命を差し出した。

 悲しいことに戦争は普通の人々も巻き込んでしまう。戦争という抗いようもない波にのまれ、図らずも命を奪われた人もまた数知れない。もし今の自分の生活が、少なくとも命の危険に脅かされずに営まれているとしたら、それは当たり前のことではない、勇敢に戦った兵士たち、犠牲になった人たち、その人たちが得ることのなかった幸せであることを肝に命ずべきだ。

 人はよく人権を主張する。そりゃ当然だ、人権は生まれるときにくっついてくるもので、憲法でも基本的人権は保障されているじゃないか。それは大きな勘違い。人権なんて本当はない。だからこそ憲法にきちんと書いて守らなければいけないのだ。順番が違う。人権こそ、私たちの先人が長い年月をかけ、時には血を流し、勝ち取ってきた権利なのだ。それも自分たちのためではない。後に続く世代が自分たちと同じ苦しみを味わってほしくないという思いがあってのことなのだ。

 現に、世界には人権のない国があちこちに存在する。先進国では、法律によって他の人権を犯したやつを裁く制度が出来上がっている。それが完璧かどうかは別問題として、法の後ろ盾もなくただ圧政者のなすがままにされる人々がまだまだたくさんいる。同じ人間なのに、生まれて来た場所が違うだけで、全く違う人生を歩まなければならない。後世のために、公平な世の中を求めて戦った人たちに思いを馳せ、曲がりなりにも人権が守られている世界に住む自分の幸運をかみしめて感謝する他ない。

 そして言うまでもなく、私たちは他の命を食べて生きている。動物や植物の命だ。いや別にそうしようと思って生まれて来たわけじゃないから、そこを突っ込まれてもなぁと思う人もいるだろうが、命が犠牲になることには違いない。問題は、私たちが必要以上に命を奪っていることだ。今や、スーパーに行けば、所狭しとお肉や魚、野菜果物が並び、お金さえ出せば何でも食べられる。でも、それは自分たちのために犠牲になった牛、豚、鶏、魚であり、他の動物の住処だった土地を奪って栽培された野菜や果物である。必要以上に奪った命を、食べきれないから容赦なく捨てているのも私たちだ。

 このように、私たちのごく当たり前の生活が、過去、現在、未来にわたり、気の遠くなるような尊い犠牲の上に成り立っている例は、枚挙にいとまがない。そして、自分もまた犠牲を払う側にいつ回っても決しておかしくはない。そう思えば、全てが変わって見えてこないだろうか。自分を生かしてくれる全てに感謝の気持ちが湧いてこないだろうか。そして後に続く全ての命のために、自分もわずかな犠牲を払ってこの世界を良くしようと思えないだろうか。

 犠牲は尊い。よく川や海で溺れた人を助けるために、自らが飛び込んで帰らぬ人になってしまう人がいる。そのたびに「どうして?」と悲しくなるが、その尊い精神に胸を打たれる。きっと私たちの中には、困った人や動物を見ると、前後の見境なく助けなければという衝動にかられる遺伝子が組み込まれているに違いない。そう、私たちは自己犠牲の精神をきちんと備えて生まれて来ている。私たちは自分を犠牲にするために生まれてきた。